世論が政治を直接動かし始めた?

 コロナウイルスの感染拡大で、日本国内が大変な状況です。毎日毎日、報道されるのはコロナのことばかり。政府も知恵を絞って何とかしようとしてますが、「感染対策なのか、経済対策なのか?」と言われるような中途半端な状態。政府が対応策を発表すれば、すぐにマスコミや市民が騒ぎ出すという混乱状態です。今まで経験したこともない試練なだけに、今までと違う「市民と政治の関係」が生まれつつあるような気がします。

こちらは4月FNN世論調査。私の意見は反映されてないが。

政府が市民の声の後追いを始めた?

 今までの国の政治を振り返ると、政権与党(おおむね自民党)が方針を決めれば、ほぼその通りに国の施策が実行されてきました。時に一部市民の反発に遭い、デモや座り込みなどの政治行動に発展したとしても、政府(主に自民党)が決めたことが反故になることは、ほとんどありません。

 ところが、今回は細かなところで変化が起きているようです。

アベノマスクがなぜ生まれたか冷静に振り返りましょう

 「世紀の愚作だ」「いや、効果はある」と様々な意見が飛び交う「アベノマスク」。正直言うと、私も愚作に近いものだったなあと思っています。
 でもね、これが生まれた大元はどこにあったかを考えると、一概に安倍さんを非難できないような気もするのです。

 それまで(おそらく)オリンピック開催に不利にならないように、コロナに大きく触れないでいた阿部さんは、3初旬にいきなり「全校の休校措置」を言い出して、それはそれは大きな話題になりました。一部に「休校なんて、少し前に言ってもらわないと対応できない。あまりにもひどい。」という意見もありましたが、そもそも感染症対策での休校措置(普通は学校長が決断する。)の場合、「朝、登校してみたら1割以上休んでいる。そして授業中発熱で早退する児童がポツポツ。そこで校長は教育委員会と相談し、翌日から3日間の休校を決定する。授業が終わったら休校のプリントを持たせ、必ず保護者に見せるように念をおして下校。」と、いきなり起きるものなのです。それが良いかどうかはともかく、現実的に「休校措置」というのは突然やってくる性質のものです。
 安倍さんが、感染者ゼロの県まで休校措置を要請したのは、少々やりすぎでしたが、まあこれは仕方のないことでしょう。(この時点でオリンピックをやる気満々でしたから、オリンピック実施という経済を優先させるため、「やれることはすべて躊躇なく」行ったということだとは思いますが。)

 さて、アベノマスクに話を進めましょう。3月末に「新年度から学校を再開しよう。」と政府が言い出した時、マスコミ、市民のソーシャルメディアは「マスクも手に入れられないのに、学校再開はおかしいだろ!まずマスクを何とかしろ!」と騒ぎました。すかざず文科省が「マスクを自作しましょう。」と発信しましたが、野党もSNSも「ふざけんな!現物を何とかするべきだろ!」という論調でした。そこで満を辞して登場したのが「アベノマスク」と言うわけです。

 アベノマスク登場の時に、市民の声はどうでしたか?「マスク2枚で何百億も使うんなら、他に使い道があるだろ!マスクくらい自作できるわい!」
 だったら、最初から「マスクは自作で何とかしよう。それよりも医療関係者に物資が届くようにしてほしい。」という声を大きくあげていれば良かったわけです。

 アベノマスクは、政府が市民の声(ヒステリー)をそのまま受け止めてしまったために起きた悲劇かもしれません。それでも、「市民の声が政策を変えた。」という今までにない形を提示する例にはなりました。

給付は30万なのか、10万なのか

 これも、面白い(と言っては語弊がありますが・・)現象でした。当初は「無利子の貸付」という制度の拡張で切り抜けようとしていた(節がある)政府に対し、「他の国は給付してるぞ。日本はどうしてできないんだ。」という声が上がりました。政府の誰も給付金について言及していない段階で、「10万円」という額が一人歩きし始めます。給付に対して消極的な政府に対し、ソーシャルメディアの意見もマスコミも「給付だ。スピード感だ。」と騒ぎ立てます。

 すると、その声に押し切られた(ように見える)政府は、「30万円」という金額を出してきました。「他の国より手厚いぞ。巷に広がった「10万円」より金額でかいぞ。どうだ。」といったところでしょうか。
 しかし、給付の条件があまりに厳しく、おまけに世帯主でないと収入源は考慮されないし、そもそも今年働き始めた人は無関係。(だって、収入の昨年比で減少と言われても、昨年は収入なしですから。)結果的にもらえる人が限定され、「結局あげる気なんてないだな。」と文句を言われ始めます。各社が報じる(少なくとも私の支持には関係しない)内閣支持率も下がり出し・・・。

 ここまできて、ようやく自民党内部からも「10万円出そうよ。」と声が上がり始めました。おそらくこれは実現するでしょう。結局のところ、内閣支持率が下がるということは、与党にとって次の選挙で苦しくなることを意味します。ここで何とか10万円出して認めてもらいたい訳ですから、言い出して期待させておいて「結局ダメでした。」という結末は避けなければなりません。そうなってしまったら、何も言わない方がよっぽど傷が浅かったはず。

 とまあ、すったもんだはありますが、これも「市民の声が政府の施策をどんどん変えていった。」という事例になりそうです。

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SNS時代の政治、その素晴らしさと危うさ

 「アベノマスク」「給付金10万円」の2つの事例は、その効果は別として、「市民の声が直接政治を動かす。」という新しい形を語る事例になるかもしれません。政府のやり方に疑問を感じたら、すぐに声を上げていく。ソーシャルメディアで発信する。それでも納得いかなかったら、「次の選挙はぜったい行こう!」と呼びかける。これは、今までの(一般市民にとって)閉鎖的だった政治を開く力になりそうです。もちろん今回のコロナ騒ぎは日本中に影響が出ており、誰も避けて通れない問題ですから、声が大きかったこともあるでしょう。できるなら、今後もいろいろな場面で市民が声をあげる社会の環境が醸成されればいいなあと思います。

国の政策が迷走する可能性

 一方で、新たな問題点も浮き出てきました。まず、市民の感情的な声に政府が振り回され、一貫した政策が取れなくなる恐れがでてくることです。

 ちょっと話が飛びます。お隣りの国、韓国では、日本に対する負のイメージが市民の声となって吹き出し、政府が市民感情に引きずられている感があります。政府が冷静に過去と現状を見つめて「では、どう付き合っていくのか。」と考えれば、韓国政府も違う態度を取るのではないかと思っています。(これは、どちらが良いのかは日本人の私が決めることではありません。)
 政府に対して声を上げることは大切ですが、政府が真に受けて動いてしまうとしたら、私たち一人一人の言動にも責任をもたなければならなくなります。我々市民のレベル次第では、マイナス方向に進むのだということも覚悟しなければならないようです。

意見が極端化し、無意味な分断を招く

 一方で、日本国内でも「とにかく安倍嫌い」という人と「とにかく安倍嫌いが嫌い」という2派に別れて声を上げています。「安倍嫌いが嫌い」という表現も変ですが、どちらも主たる論旨は「いかに相手が馬鹿者であるか。」に終始しており、「○○を応援」ではないからです。

 私の使っているソーシャルメディアにも、友達や相互フォローしている人の声が届きます。最近はコロナ関連の「家でこんなことしてます。」「○○が中止になって悲しい。」という話が多いのですが、その中に「いかに安倍がどうしようもないアホなのか。」を、どこかの記事を引き合いにして論じる人がいます。また、「いかに安倍批判をしているマスコミがどうしようもないアホなのか。」を、なぜか嫌ってるマスコミ記事を論拠に語る人もいます。もちろんいろいろな考えがあって良いのですが、ちょっと残念なのは「良い点はスルーして、悪い点は徹底攻撃する。」という姿勢をなかなか崩さないところです。(それでも、安倍さん擁護側の人も、中国からの入国を止めなかったことには腹を立てているのが不思議といえば不思議。)

 こんなに攻撃される首相は今までいなかったし、こんなに首相を攻撃しているひとが攻撃されることも今までなかった気がします。これは、安倍さんが特別な存在だからでしょうか。それとも、いよいよソーシャルメディア合戦に突入した時代、たまたまそこにいた首相が安倍さんだったからでしょうか。

 意見が対立すると、その論調がどうしても先鋭化、攻撃的になるものです。相手に弱みを見せたくないという気持ちも理解できます。でも、これがあまりエスカレートすると、攻撃的な意見だけがソーシャルメディアを賑わし、普通に良識ある人は口を閉ざすという、相変わらずの景色になるかもしれません。普通の人々が普通に感じる疑問や意見を発信し、それが大きなうねりになるような社会にしていきたいものです。

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